祖母のこと。

今年、祖母が他界した。

背が高く、猫が好きな人だった。
42歳にして祖母は「おばあちゃん」となったが、孫たちには「ママ」と呼ばせた。
ママの小指の爪はいつも伸びていた。

ちょうど今から1年前、2人で墓参りに行った。
急に「墓参りに行きたい」と思いたち、有休の届け出をして、2日後には箕面の山中にいた。
母から少し体調を崩していると聞いていたが、顔色はさほど悪くはなく、「あんたに会ったら元気になったわ」と孫冥利に尽きる一言を宣うた。

秋晴れが気持ち良い平日の昼下がり、たくさん話をした。

妾の子どもとして生まれたこと。
祖父と出会ってからの親戚付き合いの気苦労。
子どもたちの子育てをやり直したいと思っていること。
不思議と話の中心は「家族」だった。
墓守についても「お墓なんて残された方が大変なだけやわ。私が死んでも適当にしてくれたら良いからね。時々思い出してくれたらそれで良いわ」と話した。

それからわずか一週間後、末期癌であることが分かり、程なくして天国へ旅立った。
この時の墓参りが最後のお出かけとなってしまった。

ママのことは今でもよく思い出す。
ママの顔を思い浮かべる時、親愛の気持ちや、感謝の気持ちだけではなくて、反省や心残りなど、苦い後味が心に広がる。
悲しいくらいに鈍いので、苦い後味の成分が何なのかよく分からない。
今感じている苦みは、時が経つにつれて変化してきたものであることは何となくわかる。

次の休みに、墓参りに行こうと思う。
まだそこに祖母はいないけど(千の風になったのではなく、まだお骨は実家にある)、祖母が守ってきた人たちがいるから。